昭和44年11月9日  朝の御理解
御神訓 家柄人筋を改むるより お互いの人情柄を改めよ


 人情柄を改めよ、と。人情柄を改める、人情とは人の情とある、人の思い、いわゆる思いの内容ですね、思いのない、内容を改めていけとこう言われる。
 まぁ例えて申しますと、まあ、最近、長女の結婚式からこっち、何とはなしに、そのことにかまけてしまうというか、なんとはなしに、信心の目がこう、粗うなって参りましてね、なんとはなしに、その人情を使うことのほうが多いわけです。
 皆さんもご承知のように、私なん、私はとりわけ、その、人情を使わずに、まあ、神情で生き抜こうと、いうのが私の生き方ですから、いわゆる神ながらでいこうという生き方なんです。
 ところが、相手が相手でありますし、まあ、ここにもありますように、家柄一筋といったような意味合いにおいてならば、天と地ほどに違うわけですよね。
 えー、まあ、金光の古川家といえば、教団の中では名門中の名門ですし、えー、私のほうなどは、そういう意味ではもう、ようやく教会になったばっかしの、しかもこういう田舎の、えー、教会としての家柄といったようなものは、なんにもない、
えー、引っ張りもなからなければ、あー、どうということもない。まあ、いうならば、あー、野原の一本杉みたいな、あー、感じの教会なんです、ね。
 教会に親戚があるわけでもない、段々教会が長うなってまいりまして、段々教会が栄えてまいりまして、たとえば、九州で申しますと、えー、小倉とか、福岡とか、久留米とか、甘木とかと、いったようにその、ああいう大きな教会が、もうしかも、七十年にも八十年にもなりますと、そのうちに段々、その家に格というものもでけてくる、教会の格というものもできてくる、同時に又、その家柄というものが段々、例えていうと、えー、小倉と福岡は御親戚筋ですし、ね、福岡と久留米、久留米と三井教会といったように、もう全部が、あの、親戚で固まって、いかれておるという、まあ、九州では、お道の名門ですよね、皆さん。
 して合楽になりますと、まだ教会がでけたばっかりですから、その、まだ親戚の中にも信心を頂いていない者がいる、というくらいの程度だから、家柄もなからなければ、いわば、信心一筋というものも、ない、ところから、もう、一足飛びに、いわば名門中の名門というところに、縁がこう、つながるわけでございますから、今までのように、その、神ながら、ね、たとえば、これ、私と皆さんといった場合なら、私がどんなふうにしておりましても、はー、あれは、親先生、なんか神ながらなことであろうと、いうふうに、思うても、見ても下さるんですけれども、ほかでは現在の、私の方の立場としては、それは出来ない。
 もう、できるだけ、心を使うというても、人間心を使う。物の言い方一つんでも、こんなふうに言うちゃいかんじゃろうとか、こんなふうにしちゃいかんじゃろうとか、といったような、心を使わなければならない。
 そういうところから自然、そのやはり、人間心を使うわけです。
まあ、これは、ひとつの過度期というか、始めの間ですから、段々、合楽なら合楽を分ってもらい、私どももまた、あー、先方のことが段々詳しく分かってくるようになりますとです、あれなんですけれども、なんにも、いわば、雲をつかむような中に、一家親類としての、縁がつながっていきよるもんですから、中々難しい。
 あれこれと心を使わせ、それこそ、心が痛くなるほどに心を使う。使いすぎることがあったり、使い足りないことがあったり、なかなかその、おー、だろうとこう思うです。
昨日、一昨日から、こちらでは、あのう、ひざ直し、と申しますかね、こちらの方へ、旅行に来ておりましたから、昨日、一昨日帰りました。で、それと、日にち時間を打ち合わせた、て、あちらのご親戚が、見えられました。
 そいで昨日、一昨日は、まあ、遅うなりましたから、昨日一日、あります、昨日の夕方から、ま、その、なんちゅですかね、ひざ直しの式と申しますか、まあ、改まって、その、こちらの、親戚、私共の親戚の方達との、まあ、親睦というですかね、まあ、杯の取り交わしというですかね、そういう、まあ、ちょっとした、式を致しました。
 んー、そして実際にこう、右と左にこう、分かれてみて、並んでみて、えー、ほんとにその、なんていうんですかね、家柄人筋を、感ずるのでございます。
 けれども、ここにはっきり、今日私が頂きますことは、その家柄とか、人筋とかにはこだわらずに、もう、いうならばそんなことは問題じゃないのだ、もうほんとのこと言うたら、同じなのだ、一視同仁なのだ。徳分というても、同じなのだ。家柄は違っても、人筋は違っても、ね、徳分が同じだからこそ、結ばったんだ。もしそうでなかったら、提灯、釣鐘釣り合わないのだ。家柄は、どうであっても、人筋がどうであっても、何かの、そこに一つの一致点が出たからこそ、結ばったんだ。
 名門だからといって、別にどということはない。家がいいからといってどということはない。
 おんなしなんだ。気にすることもいらなければ、卑屈になることもいらない。
ね、威張ることもいらなければ、威張らせることもない。ね、問題はです、ね、人情柄を改めていきゃいいのだということ。 
 人情柄ということは、どういうことであろうか、人情柄を改める、ということは。
これはも少し余談ですけれども、そんなわけで私、その、人間心を使いすぎて、もう心身ともに疲れている、ね、昨日もあちらのご親戚を、ご案内して、えー、大宰府さんから、あちらの、えー、なんというですかね、観音寺ですか、観音寺、二日市、あちらの、石川山荘という、有名な立派な温泉ホテルがございます。そちらでお昼食なんかを頂いて、まあ、夕方までそちらで過ごさせて頂いた。
で帰りましてから、その式に臨ませていただくというか、そういうお客ごとをさせて頂きました。
 まあ、いろいろと、心を使わせてもらう、ね、そこには、この、たとえてますとね、えー人間心が過ぎると、見栄になったり、えー、せっかくの、まあ、もてなしが、もてなしにならない。
相手に喜んでいただけない。まあ、昨日一日のことをじっと考えましても、どう考えても、その、こちらとしては一生懸命のものですけれども、人情が過ぎておる、人間心が勝ちすぎておった証拠に、実にタイミングが悪い。どこで一時間待たんならん、どこで又時間を待たんならん、といったような、ひとっっ、もう私の動きということの中には、この素晴らしいタイミングということが、一番、皆さんが、はあ、親先生と一緒ならこんなに間違いない、というのがいつもなのであるけれども、昨日に限っては、そうではなかった。
 ね、せっかくご招待しておる、お客様に対しましても、はあ、お待たせしてすみません、とどこででも言わんならん、といったような状態、なんとはなしにその、タイミングの悪い一日であった。
 そして色々考えさえてもらうのは、えー、人情の使いすぎ、人間心の使いすぎである、それで、なら、相手に喜んでいただけておるかというと、ほんとにもう、見えたその日から、ずーっと、なんちゅうか、サービスずくめであって、むしろ、お客さんのほうも疲れ、かえって、一時も、もうしてから、今朝から八時に帰るというのですから、もう一時も、もう心休め、体休めて頂く時間もないほどしに、その、あっておるということは、やっぱ相済すまん、昨日などは、一日ゆっくり休んでもろうたら良かった。それのほうが、いわば親切だあったんだ。
ところが、その、人情を使いすぎておる。ね、そんなわけですから、やはりご神前に出ましても、なんとはなしに、その、神様へのぴったりするするものができない。
 今朝ほどから私、控に三時半に、いつものように出てまいりました。
もう三時半というのは、もう、私にとっては、もう大変な時間でしってね。
四時の御祈念にいってまいります三十分間というものは、もうほんとに、有り難い、その、ひと時なのですけれども、その三十分間の間に、昨日のことを考えたり、また今日のことを考えたりしてから、ひとっつも、こうぴったりしない、ご神前に行っても、なおかつそうである。
 それでもまあ、一生懸命、様々に願わしてもらい、おかげを頂いて、又、これは私のまあ、教会長としての、ご信者さんがたのこともあれこれと、願わなければならんし、様々なお願いが、一時間あまりの間になさらなければならんけれども、一向に、こう、まとまらない。
 ね、けども私は有り難いと思わしていただくことは、どうしてもその、祈りというか、願いというか、その神様と、ぴったりしたものが頂けずに、祈り、願いというものがまとまらないで、神様が引き受けてくださったというような願いになってこない。
 それでも、まあ、いつまでも、ご神前に座っておくわけには参りませんから、だいたいえー、立たせて頂かなければならない時間になってまいりましたから、神様、どうにもその、てんや、私の心の中がてんやわんやで、心にまとまりがつきません、どうぞあのことも、このことも、すべてのことに一切、万事によろしゅう、どうぞお願い申し上げます、というその、万事によろしゅうお願い申し上げますと、申し上げたときに、神様が万事引き受けたというて下さったような気がした。
 私は有り難いと思ったね。
私の心はばらばらである、私の心は一つもまとまりがついていない、神様、まあ、今日一日過ごしますと、又、神様の前にまあ、一日中、真から、心から御用させて頂くことになり、神様との仲も、こう、それこそ、水も漏らさんよう中が段々、でけてくる、だから今日までは、どうぞお許しください、私の心の中に、神様の心に、通うようなものが、どうも、いや、通いません、ただいまこうやって、小一時間近くも、ご神前にぬかずかせて頂いて、あれやら、これやら願っておりますけれども、あの願いになったり、この願いになったり、また、このお詫びになったり、この御礼になったりで、一向に祈りがまとまりません。もう時間も参ります、ですから、どうぞ神様、万事にどうぞよろしゅうお願い申します。どうぞ神様、万事によろしゅうお願います、万事引き受けた、と神様がいうて下さる気がするんです。
 そこで神様と私との交流が、そこから始まる。だから皆さん、ね、もう御祈念するとは、せからしかけんでん、もう万事よろしゅうお願いします、これではいけないことが分ります、ね、あれを練り、これを練り、あれを思い、これを思い、なら、一時間なら一時間を一生懸命、神様に、祈りを捧げさせていただくけれども、その祈りがまとまらない、もう祈って、祈って祈りぬいても、なおかつ自分の心にまとまりができない、それは、人情の使いすぎ、または、あー、神様の心とは、反対のことを言うたりしたりしておることもある。
 これは私思いましたね、今日、私共のように、ここにずーっと、神様の前に奉仕しておる者は、これでいいけれど、家でそれぞれの、お商売をなさったり、ね、いわゆる信心のない人の中に入って、様々な御用をなさる皆さんの場合はです、これはもうほんとに、こげなふう、私共のようなわけにはいけんだろうと、とこう思う。
 ね、けれどもですね、最後の締めくくりのときに、あれやらも、これ、あれこれ祈り願わせていただくときにです、ね、もう神様に心を打ち向け,打ち向けさせて頂いて、もう、私は神様に受け取ってくださったというようなものがなくても、ね、そこのところの精進が、なされていくときにです、最後の、毎日よろしゅう御礼申し上げますと、言うことは決してですね、えー、煩わしいからとか、せからしいから、万事よろしゅうお願いいますというのじゃいけない、ていうこと。
 ね、いうならば心、ご神前に向こうたから、心の限りを神様に向けさせていただいてなおかつ、まとまらない、そこに万事よろしゅうお願いしますというものでなからなければならない、ということ。
 これは本当の理屈の上で申しますとね、何事にも信心になれよとこう仰る。
商売させていただいて、いや、畑で声をかけておろうが、道をある歩ておろうが、神の中を分けて通りおるようなものでありますから、私共の心は、いつも神様に向こうて、おればですね、そんな心が支離滅裂といったようなことはない。
 ね、自分の心が乱れるといったようなことはないはずなのだけれども、さ、そこが人間、御商売をさせて頂きながら、やはり嘘も言わにゃん、駆け引きもせんならん、ね、といったような中にあってです、ね、ひっくるめて、そのことも、信心だといや、そのままですけれども、そういうような、あ、まあ、いうなら、デリケートなものです。ね、 その心が自分の信心心というものを、こう、少し人情が勝ったおもいになってしまう。
 そこに、今日は、今朝の私の場合、ね、繰り返し願うても、願うてもいけない。ただし時間はもう、どんどん迫ってくる。そこで万事よろしゅうお願いいたします、とこういうこと。
 だからこの万事よろしゅうお願いしますが言えれる、信心にならなければいけない、ということです。
 ね、だから、思わず、努めず、尽くさずにですね、万事お願いいたします、と言うことではいけないわけです。ね、その辺のところの、兼ね合いといったようなものがですね、私は今日は大事だなということを思わせて頂きました。
 ね、ほんとに神ながらな生き方ほど素晴らしいことはないな、
けれども私共生活をさせていただく上にはです、様々に神ながらの生き方ではなくて、いうならば、人ながら、人ながらというわけでもないですね、その人情のほうが勝った生き方の場合、そういうときもあるんです。
 いわゆる、まあ、いうなら、いらんことに心を使う、そして結果においてはです、これはね、昨日の一日のように、ひとっつも、まあ、こちらの思いが分って頂かんことはないだろう、心を、使わせて頂きよる、けどもその結果においては、喜んでいただくような結果にもならなければ、あー、返ってお疲れでしたでしょうという結果でしかなっていないのですけれども、ね、そこんところがですね、ひとつ、人情柄を改めていく、改めよと仰る、その人情柄というものが段々改めおうていかれて、ね、黙っておっても通じる、黙っておっても交う、ところまで人情柄というものが、改めおうていかなければならないなということを、思いますです。けれどもそれには、努力が要る、精進しなければならない、そしてお互いがね、相通じ合い、相分らせおうていけれる、おかげを頂くために、いよいよ人情柄を、改めていかなければならない。
 人情柄とは、ね、私は親切なことだと思う、ね、真心で思うということだと思う、人情柄というのは、人情というのは、ね、人情柄を改める、ね、例えていうならば、なら私の家と古川の家の場合、これからの交際というか、お付き合い、もう合楽のお父さんは、黙ってござる。どうもしなさらんばってん、心ではこういう思いを一生懸命持っておってくださるんだと分って頂ける時期が来るだろう。
又私にも、古川ではああいう、家風なんだけれど、ね、あれの根本的なところは、あそこにあるんだと、いうふうにですね、こちらが分る。そこに、いわゆる無限の交流とでも申しましょうか、いわゆる万事よろしゅうお願いいたします、万事承知いたしました、と、家と家との上においても、それができる。もう始めから万事よろしくお願いします、なら、どうでしょう、まあ、どうしたほんとに不行き届きな人じゃろうか、ということになるだろうと、ね。けれども、私と神様の場合、そのお話し申しましたような、と同じこと、ね。家と家の場合でもです、段々そういう精進がなされて、いったその上で、どうぞ万事よろしゅうお願いしますと、万事よろしゅうお願いあえれる、そこには何にもなくても、心と心が通いおうていけれる、おかげを頂くということがです、人情柄を改めおうていかなければ、そういうおかげになってこない、のだと私は思います。
 家柄とか人筋とか問題じゃない、いかに、金光家であろうが、古川家であろうが、大坪家であろうが、一視同仁なのだ。
 ね、教祖は、そこんところは仰る。そういうことは問題じゃない、そういうことを改めるということより、人情柄を改めておうていけとこう、
ね、そこから、無言の交流と、それまでに尽くしおうていくということ、または、少しは相手を疲れさせるかもしれない、又こっちも馬鹿らしい時間をそこに使わなければならないかもしれない、だからこれがいつまでも続いておるようなことであったら、いよいよつまらない。
 ね、そこ、そういう努力、精進をしていくうちに、段々あれもしなくても、これをしなくても、言わなくても、ね、分かり合うていくところのおかげ、そして、何にも言わんでも良い、いうならば、分かれる時にですかね、万事どうぞ、よろしゅうお願いいたします、はい、承知しました、万事引き受けました、と言い合えれる中、というものが生まれてきた時に、ほんとの教祖様が仰って下さる人情柄によって結ばれていく時だと私は思うのです。
 ね、始めからそんな訳にはいかん、だからそういう一つの、過度気にあるんだと、ほいで私と、大坪の家、古川の家の場合そうであります。
 まあ、一時はそこに、お互いが、ぎこちないものを感じたり、または、ちっと心を使いすぎるような場合もございましょう、双方も、とも、けどもここんとこをを、使わんで済む、それでいてなんとはなしに、有り難いものが通いあえれる中を育てていくということはです、人情を、柄を改めていく、それはどういうことかと言うと、いよいよ、ね、親切を持って、いよいよ真心を持て、そこんところが改めおうていかれるということだと、今日私は思わせて頂きました。
 そこからです、私はいうならば、まあ、家柄も人筋も立派になっていく、おかげにもなってくると思うのでございます。
 けれどもなんというても、大事なことは家柄でもなからなければ、人筋でもない、人情柄を改めておうていくという、ところが大事、人情と、人情柄というのは、ね、その、もちろん思いですけど、その思いが純粋なもの、真心から生まれてくるもの、真から生まれてくるもの、ね、親が子を思う切なる親切な心を持って、思われるもの、ね、そこんところを私は、こう、人情柄と教えて おられるのではなかろうかと、こう思います。 人情柄を改めていくということが、大事であるということでございますね。どうぞ。大坪かよこ